竹田城はなぜなくなった?1600年廃城の理由と石垣だけが残る天空の城を徹底解説

竹田城はなぜなくなった?1600年廃城の理由と石垣だけが残る天空の城を徹底解説のアイキャッチ画像

「竹田城」を検索して出てくるのは、雲海に浮かぶ幻想的な石垣の写真ばかり。なのに肝心の天守や櫓といった建物はどこにも写っていません。「竹田城はなぜなくなったの?」「昔は建物があったの?」と疑問に思ってこのページにたどり着いた方も多いはずです。

結論から言うと、竹田城の建物がなくなった直接の理由は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあとに起きた「廃城」です。城主だった赤松広秀(あかまつ ひろひで)が自刃に追い込まれ、城主を失った竹田城は江戸幕府の方針で取り壊されました。火事で焼け落ちたわけでも、地震で崩れたわけでもありません。

この記事では、竹田城が「なくなった」と言われる本当の意味から、1443年の築城〜1600年の廃城までの歴史、そして建物がないのに全国から写真好きが集まる「天空の城」の撮り方・アクセス・見学ルールまで、一次情報をもとに整理しました。歴史の背景を知ると、あの石垣の写真がもっと深く撮れるようになります。

📷 この記事でわかること

・竹田城がなくなった(廃城になった)本当の理由と年号
・1443年の築城から1600年の廃城までの歴史の流れ
・建物がないのに「日本のマチュピチュ」と呼ばれる理由
・雲海の天空の城を撮るベストシーズン・撮影スポット・カメラ設定
・観覧料500円・シーズン制の営業時間とアクセス・見学ルール

目次

竹田城がなくなった理由は「関ヶ原後の廃城」だった

竹田城がなくなった理由は「関ヶ原後の廃城」だったの解説画像

まず押さえておきたいのは、竹田城が「なくなった」というのは建物の話であって、城そのものが消えたわけではないという点です。今も標高353.7mの古城山(こじょうさん)の山頂には、当時のままの総石垣がはっきりと残っています。では、その上に建っていた天守や櫓はどこへ行ったのでしょうか。

📖 用語チェック

廃城(はいじょう)=城としての役割を終えて使われなくなること。江戸時代の廃城では、建物を解体して材木や瓦を他所へ転用することも多く、「取り壊し」を伴うケースが少なくありませんでした。竹田城もこのパターンに当たります。

建物が取り壊されたのは1600年の廃城が原因

竹田城の建物が姿を消した直接の原因は、慶長5年(1600年)の廃城です。関ヶ原の戦いの直後、城主を失った竹田城は江戸幕府の方針によって城としての役割を終えました。天守や櫓、門といった木造の建物はこのときに取り壊され、以降は再建されることなく現在に至ります。つまり「なくなった」のは、廃城にともなう人為的な解体が理由です。よくある「戦火で焼失した」というイメージとは違い、竹田城の建物は戦いで焼け落ちたわけではありません。ここを取り違えると歴史の流れがつかめなくなるので、まず「1600年に廃城→建物を取り壊し」という順番を覚えておくと理解が早くなります。

城主・赤松広秀の自刃が引き金になった

廃城のきっかけをつくったのは、最後の城主・赤松広秀の悲劇的な最期です。広秀は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、その後に東軍方の鳥取城攻めへ加わりますが、城下町を焼いた責任を問われ、徳川家康の命によって自刃させられました。城主が突然いなくなったことで、竹田城は後を継ぐ者がいない「主のいない城」になってしまったのです。江戸時代初期は、幕府が全国の城の数を管理し始めた時期でもあり、主を失った山城がそのまま廃城になるのは自然な流れでした。歴史に「もし広秀が生きていたら」と思わせる、竹田城の運命を決めた出来事です。

「なくなった」のは建物だけ、石垣は今も残る

誤解されやすいのですが、竹田城でなくなったのは木造の建物だけで、城の骨格である石垣は約400年間ほぼそのまま残っています。天守台は10.7m×12.7mの規模で、いくつもの礎石跡から3重3階の天守が建っていたことがわかっています。石でできた土台は取り壊しの対象になりにくく、風雨に強いため、時代を越えて生き残りました。この「建物はないのに石垣だけが完璧に残る」という状態こそが、竹田城が写真映えする最大の理由です。逆に言えば、もし建物が再建されていたら、今のような無機質で荘厳な絶景にはなっていなかったかもしれません。なくなったことが、結果的に唯一無二の風景を生んだと言えます。

そもそも竹田城はいつ誰が築いた城なのか

建物がなくなった理由を深く理解するには、そもそもどんな城だったのかを知る必要があります。竹田城は一度に造られた城ではなく、150年以上かけて姿を変えてきた「進化する山城」でした。ここでは築城から総石垣化までの流れを、年号とともに整理します。

📊 竹田城の歴史年表(カメラのトリセツ調べ)
年(西暦) できごと
1443年(嘉吉3年) 但馬守護・山名宗全が太田垣氏に命じて築城(当初は土の城)
1585年(天正13年) 赤松広秀が入城、穴太衆による総石垣へ大改修
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い後、赤松広秀が自刃。城主を失い廃城・建物取り壊し
現在 国史跡。総石垣のみが残り「天空の城」として人気に

1443年、山名宗全が太田垣氏に築かせた

竹田城の始まりは嘉吉3年(1443年)ごろ、但馬(現在の兵庫県北部)を治めていた守護大名・山名宗全が、配下の太田垣氏に命じて築かせたのが起源とされています。当初の竹田城は石垣ではなく、土を削って造った曲輪(くるわ)や堀切を中心とする「土の城」でした。標高353.7mの山上に築かれたのは、但馬と播磨(現在の兵庫県南西部)を結ぶ街道を見張る軍事拠点として重要だったからです。この時期の竹田城は、今写真に写る荘厳な石垣とはまったく違う、実戦本位の素朴な山城だったと考えられています。150年以上前の初代の姿を想像しながら見ると、石垣の見え方も変わってきます。

天正13年、赤松広秀が総石垣に大改修した

現在に残る石垣を築いたのは、天正13年(1585年)に入城した赤松広秀です。広秀は羽柴(豊臣)秀吉の家臣として頭角を現した武将で、竹田城を土の城から本格的な近世城郭へと造り替えました。山の各所から石を切り出し、山頂を総石垣で固めた姿は、当時としても最先端の技術です。今わたしたちが「天空の城」として撮影しているのは、この広秀時代の遺構そのもの。つまり、竹田城の建物はなくなりましたが、写真の主役である石垣は約440年前に完成したものだと考えると、シャッターを切る重みが変わってきます。改修からわずか15年で廃城になった、という短さも竹田城の歴史の切なさです。

穴太衆が積んだ野面積みの石垣

竹田城の石垣は、近江(現在の滋賀県)の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が手がけたと伝わります。積み方は、自然の石を加工せずほぼそのまま組み上げる「野面積み(のづらづみ)」。一見ラフに見えますが、大小の石を絶妙に噛み合わせることで、400年以上崩れずに残る強度を実現しています。写真としては、この不揃いな石のリズムが陰影を生み、朝日が当たると立体感がぐっと増すのが魅力です。整然と加工された江戸後期の石垣にはない、荒々しくも計算された美しさが撮影の見どころになります。近くで石の質感を撮る「寄り」の構図も、遠景の雲海写真とは違った表情が出せます。

3重3階の天守があった証拠

「建物がなくなった」と言っても、かつて何が建っていたのかは石が教えてくれます。天守台は10.7m×12.7mのやや歪な形で、上面には礎石(そせき=柱の土台石)の跡が確認でき、そこから3重3階の天守が建っていたと推定されています。柱の間隔は京間(きょうま)と呼ばれる規格で組まれており、格式ある建物だったことがうかがえます。今は何もない天守台に立ち、礎石の配置を見ながら「ここに三層の天守がそびえていた」と想像するのも、竹田城ならではの楽しみ方です。撮影でも、礎石を前景に入れて雲海を背景にすると、失われた建物の存在を感じさせる一枚になります。

竹田城が廃城になった1600年に何が起きたのか

竹田城が廃城になった1600年に何が起きたのかの解説画像

竹田城の運命を決めたのは、日本史の大きな転換点である関ヶ原の戦いでした。ここでは、なぜ広秀が自刃に追い込まれ、城が廃城となったのか、その1600年の出来事を順を追って見ていきます。歴史の因果がわかると、「なぜなくなったのか」への答えがくっきりします。

関ヶ原の戦いで西軍についた赤松広秀

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、赤松広秀は当初、石田三成らの西軍に味方しました。広秀は丹後(現在の京都府北部)の田辺城攻めに加わりますが、まもなく西軍が本戦で敗れたことを知ります。竹田城へいったん撤退した広秀は、ここで難しい立場に置かれました。西軍についた以上、そのままでは敗軍の将として処罰されかねません。この「どちらにつくか」の判断の遅れが、のちの悲劇につながっていきます。戦国から江戸への時代の変わり目で、多くの武将が同じような選択を迫られましたが、広秀の場合はその後の展開が特に過酷でした。

鳥取城攻めの放火事件と自刃

敗軍の汚名をそそごうと、広秀は東軍方の亀井氏から誘われて鳥取城攻めに参加します。ここで功を挙げれば罪は帳消しになるはずでした。ところが攻城戦のさなかに鳥取の城下町で火災が発生し、その放火の責任を広秀が問われることになります。結果として、徳川家康の命により広秀は自刃させられました。西軍から東軍へと立場を変えて挽回を狙ったにもかかわらず、思わぬ形で命を落とすことになったのです。仁政で領民に慕われた武将だっただけに、この最期は竹田城の歴史のなかでも最も語られる悲話となっています。城主の死が、そのまま城の死につながりました。

江戸幕府の方針で城主不在のまま廃城に

城主・赤松広秀を失った竹田城には、跡を継ぐ者がいませんでした。江戸時代初期は、幕府が全国の城を整理・管理し始めた時期にあたり、主のいなくなった山城が新たな城主を迎えて存続する例は多くありませんでした。こうして竹田城は慶長5年(1600年)のうちに廃城となり、以後、城としての歴史に幕を下ろします。建物は解体され、山上には石垣だけが残されました。「なぜなくなったのか」という問いへの最終的な答えは、この「城主の自刃+幕府方針による廃城」というダブルの要因にあります。個人の悲劇と時代の大きな流れが重なった結果だったのです。

【意外な事実】建物は焼失ではなく取り壊された

実は、竹田城の建物について「戦火で焼け落ちた」と思っている方が少なくありませんが、これは正確ではありません。天守をはじめとする建物は、火災で失われたのではなく、廃城にともなって計画的に取り壊されたと考えられています。江戸時代の廃城では、木材や瓦を他の建築へ転用することがよくあり、無駄なく解体されるのが一般的でした。だからこそ、燃え残りの炭や焼け跡ではなく、きれいな石垣だけが残っているのです。「焼失」ではなく「解体」——この違いを知っているだけで、竹田城の見え方が一段深くなります。撮影の合間に同行者へ話せば、ちょっとした歴史通に見えるかもしれません。

建物がない城跡がなぜ「日本のマチュピチュ」と呼ばれるのか

普通に考えれば、建物がない城跡は地味なはずです。ところが竹田城跡は「日本のマチュピチュ」「天空の城」と呼ばれ、全国から写真好きが集まる人気スポットになっています。建物がないことが、むしろ人を惹きつけているのはなぜでしょうか。

📷 ここがポイント

竹田城が人気なのは「建物がないから」でもあります。天守がなく石垣だけだからこそ、雲海と一体化した幻想的なシルエットが生まれ、被写体として唯一無二の存在に。廃城になったことが、結果的に写真映えする絶景をつくり出しました。

雲海に浮かぶ「天空の城」の絶景

最大の理由は、秋から冬の早朝に発生する雲海です。周囲の谷が霧で真っ白に埋まると、山頂の石垣だけが雲の上に顔を出し、まるで城が空に浮かんでいるように見えます。この光景が「天空の城」と呼ばれる所以です。建物がなく石垣だけだからこそ、雲海と一体化した神秘的なシルエットが生まれます。もし天守がそびえていたら、これほど自然と溶け合った風景にはならなかったでしょう。なくなったことが、逆に唯一無二の絶景をつくり出したという点が、竹田城の面白さです。雲海は9月下旬から4月上旬にかけて発生し、条件がそろえば誰でもこの光景を狙えます。

あわせて読みたい
竹田城の雲海が出る時期は9月〜4月|確率を上げる3条件と撮影完全ガイド
「竹田城の雲海を見たいけど、いつ行けば確実に見られるの?」——そんな疑問を抱えている方は多いはずです。竹田城跡は兵庫県朝来市にある山城で、雲海に包まれた姿が「天…

総石垣が残る全国でも珍しい山城

竹田城が評価されるもう一つの理由は、山頂全体を石垣で固めた「総石垣の山城」が、そのままの形で残っている希少さです。全国の山城の多くは石垣が崩れたり土に埋もれたりしていますが、竹田城は縄張り(城の設計図)がはっきり読み取れるほど良好な状態で保存されています。天守台を中心に、南千畳・北千畳・花屋敷といった曲輪が放射状に配置された姿は、上空から見ると壮観です。建物がないぶん、城の「骨格」がむき出しで見えるのが魅力で、城郭ファンにとっては教科書のような存在。国史跡にも指定されており、歴史的価値の高さがお墨付きです。

映画・ドラマのロケ地としての知名度

竹田城跡は、時代劇や映画のロケ地としても使われ、その荘厳な石垣の風景が全国に知られるきっかけになりました。建物がない=セットを組みやすいという実用面もあり、戦国の世界観を表現する舞台として重宝されてきました。メディアで取り上げられるたびに「あの絶景はどこ?」と検索する人が増え、写真スポットとしての人気が高まっていったのです。近隣には棚田や渓谷など、同じ但馬エリアの絶景スポットも点在しており、写真旅の目的地として組み合わせやすいのも人気の一因になっています。

あわせて読みたい
丸山千枚田 展望スポット3か所を徹底比較|構図・見頃・設定値まで撮影ガイド
丸山千枚田で写真を撮りたいけれど、「どこから撮れば棚田全景がきれいに入るのか」「展望スポットは何か所あるのか」がわからず困っていませんか。三重県熊野市紀和町に広…

竹田城跡を撮るならいつ・どこから狙うべきか

ここからは、実際に竹田城跡を写真に収めるための実践情報です。歴史を知ったうえであの絶景を狙うなら、「時期」と「撮影場所」の2つが写真の成否を分けます。狙う構図によってベストな立ち位置が変わるので、事前に押さえておきましょう。

🎯 撮影スポット比較(カメラのトリセツ調べ)
撮影場所 撮れる構図 アクセス目安
立雲峡 第1展望台 雲海に浮かぶ城跡の全景(俯瞰) 駐車場から徒歩約30分
藤和峠 西側からの遠望(上級者向け) 駐車場から徒歩約2分
竹田城跡(城内) 石垣・天守台・雲海を間近で 竹田駅裏登山道 徒歩約40分

雲海シーズンは9月下旬〜4月上旬が狙い目

雲海が発生するのは9月下旬から4月上旬にかけて。なかでも最も濃く写真映えする雲海が出やすいのは、11月下旬〜12月上旬の早朝です。10月中旬から11月下旬のベストシーズン中は、およそ3日に1度の確率で雲海が発生すると言われています。雲海が出る条件は、前日との寒暖差が大きく、風が弱く、湿度が高い快晴の朝。夜のうちから冷え込んだ日ほどチャンスが高まります。逆に、真夏や雨・強風の日はまず出ません。「行けば必ず見られる」ものではないため、複数日の予定を確保するか、天気予報の冷え込み具合を見て狙い撃ちするのが賢い立ち回りです。

立雲峡 第1展望台からの俯瞰が王道

雲海に浮かぶ城跡の全景を撮るなら、向かいの山にある立雲峡(りつうんきょう)が王道です。第1展望台は竹田城跡よりも高い約400mの位置にあり、雲の上に浮かぶ城跡を見下ろす構図が撮れます。駐車場は24時間開放で和田山ICから約10分、そこから第1展望台までは徒歩約30分の登りです。日の出は6時15分ごろなので、暗いうちに登り始めて場所を確保するのが鉄則。人気スポットゆえベストシーズンの週末は三脚を並べる場所の取り合いになるため、早朝5時ごろの到着を目安にすると安心です。ヘッドライトと防寒着は必携になります。

藤和峠と城内からの構図も押さえる

立雲峡以外にも、竹田城跡の西側に位置する藤和峠(とうわとうげ)は、車を停めてから徒歩約2分で撮影ポイントに着ける手軽さが魅力です。ただし整備は最小限で、立雲峡ほど開けていないため上級者向け。一方、城跡そのものに登れば、石垣や天守台を前景に雲海を間近で捉える「城内からの一枚」が撮れます。俯瞰の立雲峡とは違い、石の質感や礎石を主役にできるのが城内撮影の強み。どの構図を撮りたいかで立ち位置を選ぶと、1回の遠征でも表現の幅が広がります。時間に余裕があれば、朝は立雲峡、日中は城内、と回るのもおすすめです。

【失敗パターン①】日の出時刻を逃して真っ白な写真に

初めての人がやりがちな失敗が、日の出時刻に間に合わず絶景を逃すパターンです。雲海が最も美しく色づくのは、朝日が雲海を照らす日の出前後のわずかな時間帯。6時15分ごろの日の出に対して、7時前後には雲海が最も広がり、そこから太陽が高くなると霧は一気に消えていきます。ゆっくり出発すると現地に着いたときには真っ白な霧が晴れていた、あるいは平凡な明るさになっていた、ということになりかねません。対策はシンプルで、日の出の少なくとも1時間前には撮影ポイントに立っていること。暗い山道を歩くのでヘッドライトも忘れずに準備しましょう。

天空の城を失敗せず撮るカメラ設定と機材

絶好の雲海に出会えても、設定を外すと台無しになります。早朝の逆光・低照度という厳しい条件を攻略するために、露出・ホワイトバランス・機材の3点を押さえておきましょう。ここを準備しておくと、その場で慌てずにシャッターが切れます。

📋 竹田城 雲海撮影の設定カード(目安)
撮影モード 絞り優先(A/Av)またはマニュアル
F値 F8〜F11(全景をシャープに)
ISO感度 100〜400(三脚使用で低感度)
露出補正 +0.3〜+1.0(白い雲海が暗く写るのを防ぐ)
レンズ 標準〜中望遠(俯瞰は70〜200mm、城内は広角)

露出・ホワイトバランス・レンズの正解

雲海撮影で最初につまずくのが露出です。カメラは白い雲海を「明るすぎる」と判断してアンダーに写そうとするため、そのままだと灰色に沈みます。露出補正を+0.3〜+1.0ほどプラスにして、雲海の白さを取り戻すのがコツ。ホワイトバランスは、朝日の暖色を活かすなら「太陽光(5200K前後)」固定がおすすめで、オートだと色が転びやすくなります。レンズは、立雲峡から城跡を大きく切り取るなら70〜200mmの中望遠、城内で石垣と空の広がりを入れるなら広角が活躍します。露出補正の考え方は下の記事でも詳しく解説しているので、あわせて確認しておくと現場で迷いません。

あわせて読みたい
マジックアワーと夕焼けの違いは太陽高度6度|黄金と青に染まる空を完全解説
「マジックアワーと夕焼けって、結局なにが違うの?」——カメラを始めると、この2つの言葉をどこかで耳にしますよね。SNSでは同じような夕方の写真に、どちらのタグも…

三脚とレリーズは必須級の機材

早朝の薄暗い時間帯は、シャッタースピードが遅くなりがちです。手持ちでは手ブレでせっかくの雲海がにじんでしまうため、三脚は必須級の装備。石垣や岩場で足場が不安定な場所も多いので、しっかり自立する中型以上の三脚が安心です。さらに、シャッターを押す振動を抑えるレリーズ(リモートシャッター)やセルフタイマーを併用すると、低照度でもシャープな1枚が残せます。加えて、ベストシーズンの立雲峡は撮影者で混み合うため、コンパクトにたためる三脚だと隣との干渉を避けやすいのも実用的なメリットです。荷物は増えますが、この2点で歩留まりが大きく変わります。

【失敗パターン②】早朝の寒さと結露でレンズが曇る

もう一つ見落としがちなのが、寒暖差による結露(けつろ)です。雲海が出るのは湿度が高く冷え込んだ朝。暖かい室内や車内からいきなり冷たい外気にレンズを出すと、レンズ表面やセンサー周りが曇り、写真が白くもやついてしまいます。対策は、撮影の30分〜1時間前からカメラを外気にならしておくこと。レンズヒーターや使い捨てカイロをレンズ鏡筒に巻くのも効果的です。加えて、雲海シーズンの早朝は氷点下近くまで冷え込むこともあり、防寒着・手袋がないと手がかじかんで操作どころではありません。予備バッテリーを内ポケットで温めておくと、低温によるバッテリー消耗も抑えられます。

竹田城跡へのアクセスと見学ルール|石垣を守るために

最後に、実際に訪れるための実務情報です。竹田城跡は貴重な国史跡であり、石垣を守るための見学ルールが細かく定められています。料金・営業時間・アクセスと合わせて、訪問前に必ず確認しておきましょう。

Q 竹田城跡は一年中いつでも登れますか?
A いいえ。1月4日〜2月末は冬季閉山のため日中の登城ができません。それ以外もシーズンで観覧時間が変わるため、訪問前に朝来市公式サイトで最新情報の確認が必須です。

車と電車でのアクセス

車の場合、最寄りは北近畿豊岡自動車道・播但連絡自動車道の「和田山IC」で、IC下車後「和田山IC前」信号を左折して約10分で各駐車場に到着します。立雲峡の駐車場は24時間開放されているので、雲海狙いの早朝アクセスにも便利です。電車の場合はJR播但線の「竹田駅」が最寄り駅で、駅裏登山道ルートを使えば徒歩約40分で城跡に着きます。歩くのが不安な方は、季節運行の「天空バス」などを利用して山上近くまで上がる方法もあります。いずれのルートも山道を歩くため、スニーカーなど歩きやすい靴で行くのが基本です。

観覧料と営業時間はシーズン制

竹田城跡の観覧料は、大人(高校生以上)500円、20人以上の団体は450円、中学生以下は無料です。営業時間はシーズンによって細かく変わり、サマー・雲海シーズン(6月1日〜12月初旬)は5:00〜17:00(最終入城16:30)、スプリングシーズン(3月1日〜5月末)は8:00〜18:00、ウィンターシーズン(12月初旬〜1月3日)は10:00〜15:00です。雲海を狙う早朝5時登城が可能なのはサマー・雲海シーズンだけなので、時期選びは重要。気象条件や防災上の理由で入場規制がかかる場合もあるため、当日の状況は公式サイトで確認してから向かいましょう。

⚠️ 訪問前にチェック

竹田城跡は遺構保護のため見学ルートが決められており、立ち入り禁止区域があります。ハイヒールや杖・傘の先端は史跡の地表を傷つける恐れがあるため使用不可、城跡内は全面禁煙です。三脚も指定ルート内でマナーを守って使いましょう。最新の料金・時間・規制は必ず朝来市公式ホームページでご確認ください。

石垣保全のための見学ルールを守る

竹田城跡は約400年前の石垣がそのまま残る貴重な史跡です。だからこそ、多くの人が訪れる今、保全のためのルールが設けられています。遺構へのダメージを避けるため見学ルートが指定され、石垣の上に登ったり立ち入り禁止区域に入ったりすることはできません。撮影に夢中になって足元の礎石や土のう・シートを踏み荒らさないよう注意が必要です。「良い写真を撮りたい」気持ちと「史跡を次世代へ残す」責任は両立させたいもの。ルートやマナーを守ることが、この絶景を未来も撮り続けられる条件になります。ルールを守った上で、心ゆくまで天空の城を切り取りましょう。

まとめ:竹田城がなくなった理由と、いま撮れる絶景

竹田城の建物がなくなった理由は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に城主・赤松広秀が自刃し、城主を失った城が江戸幕府の方針で廃城となったからです。建物は戦火で焼失したのではなく、廃城にともなって取り壊されました。しかし城の骨格である総石垣は約400年間ほぼそのまま残り、雲海に浮かぶ「天空の城」として、いまや全国から写真好きが集まる絶景スポットになっています。建物がなくなったことが、かえって唯一無二の風景を生んだと言えるでしょう。

この記事の要点を整理します。

  • 竹田城がなくなったのは1600年の廃城が原因で、建物は焼失ではなく取り壊された
  • きっかけは城主・赤松広秀の自刃(関ヶ原後の鳥取城攻めでの放火責任)
  • 築城は1443年(山名宗全→太田垣氏)、総石垣化は1585年(赤松広秀・穴太衆)
  • なくなったのは建物だけ、10.7m×12.7mの天守台を含む石垣は現存
  • 雲海は9月下旬〜4月上旬、ベストは11月下旬〜12月上旬の早朝
  • 撮影は立雲峡 第1展望台(俯瞰)・藤和峠・城内の3択、日の出は6時15分ごろ
  • 観覧料は大人500円、営業時間はシーズン制で1/4〜2月末は冬季閉山

まずは、行きたい時期の観覧時間と雲海の発生条件を調べるところから始めてみてください。歴史を知ったうえであの石垣にレンズを向ければ、ただの絶景写真が「440年の物語を写した一枚」に変わります。冷え込んだ晴天の早朝を狙って、天空に浮かぶ城の姿をぜひファインダーに収めてみましょう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

カメラ歴8年、ミラーレス一眼を中心に撮影テクニックやカメラ選びの情報を発信しています。初めてカメラを買う方にもわかりやすい比較記事や、シーン別の撮影のコツなど、「撮ることがもっと楽しくなる」記事を目指しています。

コメント

コメントする

目次